Woodside, A. B. “Vietnam and the Chinese Model”

出版情報

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副題A Comparative Study of Vietnamese and Chinese Government in the First Half of the Nineteenth Century
著者Alexander Barton Woodside
発行Harvard University Press
出版年1988
ISBN0-674-93721-X

内容

19世紀前半のヴェトナム政府と中国政府との比較を行った研究。ただし、その比較の範囲は多岐にわたり、文学、官僚組織、中央政府と地方、対外関係に言及している。

コメント

入院中に読みましたが、理解できたとは言い難い状態です‥‥。

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2008/01/05 更新

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2007/11/19 更新

新規作成。

山本達郎(編)『ベトナム中国関係史』

出版情報

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副題曲氏の抬頭から清仏戦争まで
編集山本達郎
出版社山川出版社
出版年1975
ISBN-
価格¥9000(1975年)

内容

タイトルや副題“曲氏の抬頭から清仏戦争まで”が示すとおり独立期から近代までの越中関係を概観している。

4半世紀前の論文集だが、執筆者それぞれに蓄積された業績が総括されており、非常に充実した内容となっている。

コメント

これはエキサイティングな外交史の論文集で、越中関係に関する名著とされています。巻末に附された文献目録や付録の地図なども大変便利。もっとも、地図が無いとさっぱり意味不明な箇所も多いです。

この書物以後、研究が大幅に進展した分野もあったりするので、近年の論文とともに目を通すことがお薦め。

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2008/01/05 更新

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2007/07/28 更新

副題欄が無かったため、追加しました。

2007/04/21 更新

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坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史』

出版情報

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副題阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム 1847‐1883
著者坪井善明
出版社東京大学出版会
出版年1991
ISBN4-13-036057-4
価格¥6600(1991年)

内容

ヴェトナムの植民地化を、本来支持層であったはずの文紳階層と阮朝嗣徳帝との決裂を背景として描いている。

国内の社会・経済情勢と国際関係を絡めたオーソドックスな構成である。刊行当時ほとんど用いられなかった史料を使用している点と、この時期に関してヴェトナムそのものを基点とした(特に書籍の形での)先行業績が少なかったという点で非常に有用である。

コメント

すらすら読めます。ヴェトナムの植民地化について、いまいち経緯がよく解らない人はこの本から始めると良いかもしれません。私ももやもやした部分がこの本で随分すっきりしました。中国南部の海賊や、太平天国系の武装集団=黒旗軍・黄旗軍・白旗軍について知りたい人もこの本は一読の価値があるでしょう。

ヴェトナムの村落居住者(農民ら)に関する記述があまり無いので、そのあたりが個人的な不満です。

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2008/01/05 更新

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2007/04/29 更新

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阮福暎(1762‐1820)

人物情報

姓名阮福暎
Quốc ngữNguyễn Phúc Ánh
主な日本語読みグェン・フック・アィン
別名阮福映(一般的な表記)

帝号など

帝号嘉隆帝
Quốc ngữGia Long Đế
主な日本語読みザロンてい
在位年1802‐1820
廟号世祖

事績

ヴェトナム阮朝の創始者。

1600年代から1800年代にかけてヴェトナム中・南部に広南(Quảng Nam、クァンナム)国を築いていた阮(Nguyễn、グェン)氏の一族出身。広南国定王阮福淳の甥であり、西山(Tây Sơn、タイソン)阮氏の攻撃により広南国阮氏が滅亡した後の生き残りである。

広南国滅亡後、1780年に嘉定(Gia Định、ザーディン、現ホーチミン)にて即位。その後、西山阮氏に敗れてカンボジアやタイに亡命する。ここでラーマ1世や反西山の姿勢をとる華僑の援助を取り付け、西山阮氏との激しい戦いを繰り広げつつ、南部ヴェトナムを中心に勢力を広げる。1788年に嘉定城を陥落させた。

翌年、幼い長子阮景(Nguyễn Cảnh、グェン・カィン)を名代としてフランスのルイ16世との間にヴェルサイユ同盟条約を結ぶも、結局フランス国家としての援助は得られず、アドラン司教ピニョーがフランス人志願兵をかき集めた。

1801年にはフエを陥落させ、翌1802年、ハノイを奪還して西山阮氏を滅ぼし、南北ヴェトナムを統一する。

1804年、清より“越南國王”として冊封された。

彼自身は当初“農耐(Nông Nại、ノンナイ)”の国号を使用しており、冊封時には“南越”の国号を希望していたが、前漢を圧迫して両広まで版図におさめた南越の号を使用することに清が難色を示し、妥協して南越をひっくり返した“越南”を使用することとなった。これは“越南”も“南越”もヴェトナム語の文法では“南越”となるためである。

南北統一後、均田制と『皇越律令』を発布したが、嘉隆帝は南部・北部を直接支配することは避け、総鎮を置いて間接的な支配を行った。

参考文献

コメント

苛烈きわまる戦争を20年以上経験してドラマチックな人生にもかかわらず、いまいち地味な印象の人物。彼の廟は夫婦並んだ珍しい作りだそうです。

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2007/04/03 新規作成

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