陳朝(1225‐1400)

ヴェトナム最初の長期政権。

李朝末期の動乱から台頭した水上運輸勢力(兼漁業や海盗)陳氏(Trần、チャンし)が李朝より政権を奪取して成立した王朝。前半期は対モンゴル(大元)戦、後半期は南方のチャンパと戦争を行った。特に対元戦はその後、民族のアイデンティティ成立に大きな影響を及ぼしている。

首都は昇竜(Thăng Long、タンロン)であるが、陳氏の故郷である即墨郷にも行宮が築造されて天長府(Thiên Trường Phủ、ティエンチュオンフー)と改名、第二の首都としての機能を持っていた。陳氏皇族は昇竜・天長府・各々の領地を往来している。

また、紅河デルタの工学的開発が開始され、当時アジア最大規模といわれる巨大な輪中がつくられた。沿岸部の開拓も始まる。

その最初期から権力集中のために上皇制、族内婚など独特の制度を持っていたが、後半は科挙官僚の台頭と皇族内の内紛が続き、中央集権化を指向する科挙官僚と結びついた外戚胡氏(Hồ、ホし)によって簒奪された。

1225
陳氏の実力者陳守度(Trần Thủ Độ、チャン・トゥ・ド)が一族の少年・陳蒲(Trần Bồ、チャン・ボ)を李昭皇(Lý Chiêu Hoàng、リィ・チェウ・ホァン)と結婚、禅譲させる。陳蒲は陳煚(Trần Cảnh、チャン・カィン)と改名して即位する。これが陳太宗(Trần Thái Tông、チャン・タイ・トン)である。
1248
大堤防・鼎耳堤の築造。各村落を一単位とした紅河デルタの開拓が開始される。陳朝皇族を中心に私奴婢を使った田庄経営が行われた。
1257
対南宋攻撃の一環(進路確保)として雲南方面よりモンゴルのウリャンカダイが侵入し、十数日で撤退する(第一次対元戦)。
モンゴル(大元)と三年一貢を取り決める。後、国王入朝・貢物・人質等を要求する大元と、要求を無効化しようとする陳朝の間で延々と交渉が続く。
1272
黎文休(Lê Văn Hưu、レー・ヴァン・フー)が史書『大越史記』を編纂する。(この書は現在の『大越史略』であるとの説もあり)
1279
南宋、最終的に滅亡。この頃、宋から大越・チャンパに亡命者がやってくる。
1282
大元、南方海洋貿易の支配を企図してチャンパに出兵。チャンパの抵抗にあい、失敗。遠征軍の一部は第二次対元戦に流用される。
1284‐85
対チャンパ戦略の一部として第二次対元戦勃発。陳朝及び各地住民の抵抗・暑熱・疫病によって大元軍撤退。
1287‐88
第三次対元戦。1288年、白籐江(Bạch Đằng Giang、バックダンこう)の戦いで大元軍の補給部隊が壊滅し、撤退が決定的に。
14C‐16C
陶磁器の開発に成功し、南海貿易に参画。14C頃には第二の首都・天長府等で商品開発用の窯が作られる。後に清化(Thanh Hóa、タインホア)地方で窯業が盛んになる。
14C末
チャンパの攻勢。1377年、陳睿宗(Trần Duệ Tông、チャン・ズエ・トン)が対チャンパ戦で敗死する。チャンパ王制蓬我(チェーボンガー)が胡季犛(Hồ Quý Ly、ホ・クィ・リィ)に火器で殺害されるまで、この攻撃が続く。
1397
陳朝の実権をにぎった胡季犛が清化(Thanh Hóa、タインホア)に遷都。西都(胡氏城)と称される。
1400
胡季犛が外孫の陳少帝(Trần Thiếu Đế、チャン・ティエウ・デー)を廃位し陳朝を簒奪する。

コメント

エピソード的にはこの時代が一番面白かったりします。大してものになりませんでしたが、一応、この時代あたりが大学時代の専攻でした。

更新履歴

2008/02/03 新規

昔のデータからコンバートしました。内容も修正。