李朝(1010‐1225)

ヴェトナム最初の長期政権。

本来、李朝以前の初期王朝に見られた地域勢力連合の盟主としての性格を引き継いでおり、中央集権国家ではなく、貿易・戦争による収入を財政の支柱としていた。しかし、東南アジア貿易ルートの変化により貿易による利潤が減少したことや、対中国対策、人口増加によって後期にはデルタ開拓農業による収益へとシフトを試み、中央集権化を指向したものの失敗。この失敗によって李朝を含む各地の半独立勢力間の大規模な抗争が引き起こされ、政権崩壊した。

官僚制が未発達で仏教勢力の力が強く、女性の政治的な役割が大きいのも特徴。初期は複数の皇后が冊立され、皇帝の死後は有力皇族と皇后一族らを交えて武力による継承争いが繰り広げられた。4代仁宗以降嫡長子相続となり、皇后も中期以降1人になる。

1009
前黎朝で軍権を掌握した李公蘊(Lý Công Uẩn、リィ・コン・ウァン、李太祖)が黎竜鋌(Lê Long Đĩng、レー・ロン・ディン、臥朝)の死後に即位し、翌年、華閭(Hoa Lư、ホアルー)から、紅河デルタ頂点部にある大羅城(thành Đại La、ダイラじょう) を昇竜(Thăng Long、タンロン、現ハノイ)と名付けて遷都。
1054
国号を「大越(Đại Việt、ダイヴィエット)」にする。ただし対中国的には引き続き中国より受けた王号を使用した。
11C中頃
タイ系民族の首長儂氏(Nùng、ヌンし)が中越国境地帯の高平(Cao Bằng、カオバン)地方で独立国家形成を目指すものの、中国宋朝・李朝の双方より武力鎮圧され失敗。
1070
北宋の神宗、王安石を宰相とする。
1075‐77
国境策定を巡って北宋と交戦。北宋の王安石が産金地帯である中越国境に対して積極策を取り、軍事行動の準備を行う。これに対して李常傑(Lý Thường Kiệt、リィ・トゥオン・キェット) が李朝軍を率いて先制、北宋の領域である欽州・廉州を陥落させる。さらに翌年、李朝は北宋の派遣軍を如月江(sông Như Nguyệt、ニューグェットこう) で撃破した。
1127
北宋滅亡。南宋建国。
1174
南宋より「安南国王」の称号を受け、内地扱いから外国と認められる。
1200初‐
紅河デルタ諸勢力の武力対立。李恵宗の外戚となったデルタ下流の陳氏(Trần、チャンし)が勃興する。
1225
李佛金(Lý Phật Kim、李昭皇)、陳氏一族の陳煚(Trần Cảnh、チャン・カィン、陳太宗)に禅譲し、李朝が終焉する。

コメント

昔のコンテンツからようやく復旧しました。

余談ですが、朝鮮半島の花山李氏は李朝皇族であった李龍祥の後裔だそうです。陳朝初期に迫害された李氏の郎党が国外脱出を図り、朝鮮半島に流れ着いたそうで。

更新履歴

2007/12/19 新規

昔のデータからコンバートしました。内容も修正。