北属期(B.C.110‐938)

中国歴代王朝による支配が行われた約1000年間を北属期と呼ぶ。その支配は一様に中央集権的な統治ではなく、時代・地域によって様々な支配形態を取った。唐以降、徐々に在地勢力が自立してゆき、独自の国家形成へと進んでゆく。

ヴェトナムでは李賁(Lý Bí、リィ・ビ)に始まる一時的な独立を挟んで第一次北属(Bắc thuộc lần thứ nhất)、第二次北属(Bắc thuộc lần thứ hai)とし、そして明の占領期を第三次北属(Bắc thuộc lần thứ ba)とする見方もある。

B.C.111
前漢の武帝が南越國を併合。交阯・九真・日南三郡を設置。
40‐43
徴姉妹(Hai Bà Trưng、ハイ・バー・チュン)の起義。ヴェトナム北部の土豪と漢が派遣した官吏との軋轢が激化し、徴側の夫が後漢の交阯太守に殺害されたことが発端となった。後漢の伏波将軍馬援によって鎮圧。起義鎮圧後、土豪勢力は没落していったが、徴側・徴弐姉妹は神格化され、徴女王として尊崇を受ける。
1c末‐2c初
士燮(Sĩ Nhiệp、シー・ニエップ、137?‐226)の割拠。中国後漢末期より三国時代にかけて、土着化した漢人である士燮がヴェトナム北部を支配した。士燮の歴史上の位置づけについては時代や地域によって変遷があり、おおむね後代に下るほど、その評価は低下する。
542
李賁(Lý Bí、リィ・ビ、前李南帝)が蜂起し、544年、国号を万春国(Vạn Xuân、ヴァン・スァン)とする(‐548)。
548‐571
趙光復(Triệu Quang Phục、チェウ・クァン・フック)の活動。
571‐602
李仏子(Lý Phật Tử、リィ・ファット・トゥ、後李南帝)の活動。
753
阿倍仲麻呂(朝衡)が日本への帰国途中に遭難し、驩州(ヴェトナム北部ゲアン付近)に漂着。後に安史の乱の頃、ヴェトナム北部を治める鎮南都護・安南節度使に任命された。
863‐866
南詔が安南都護府に侵攻し、占領。高駢(Cao Biền、カオ・ビェン)がこれを撃退した。安南都護府は廃止され、高駢が静海軍節度使に任命されて半自立勢力となる。
905‐930
静海軍節度使の曲(Khúc、クック) 氏三代の台頭。930年、南漢の介入によって曲氏のヴェトナム支配は終焉を迎える。
931
土豪の楊廷藝(Dương Đình Nghệ、ズォン・ディン・ゲ)により南漢勢力はヴェトナム北部より放逐され、楊廷芸は節度使を自称した。
937
矯公羨(Kiều Công Tiễn、キェウ・コン・ティエン)による楊廷藝殺害。楊廷藝配下の呉権(Ngô Quyền、ゴー・クェン)が矯公羨を攻撃し、矯公羨が救援を南漢に要請する。

コメント

ちなみに「北属期」という言い方もヴェトナム北部に成立した諸王朝からの呼称であって、チャンパ王国を含むものではありません。チャンパの部分はおいおい追加してゆきます。

更新履歴

2007/04/05 更新

リニューアルに伴い、データをコンバートしました。記事も多少修正。