丁朝(966?‐979)

丁部領、丁璉父子が創始した王朝であり、父子で王権を共有する体制を取ったとされる。先に丁璉の名義で南漢に(後に宋にも)朝貢を行って節度使の地位を受け、975年には丁部領が交阯郡王となって、宋に支配権を認めさせた。中国に朝貢を行いつつ、国内及び国外(主に西方と南方諸国)には皇帝を称するという独特の構造は、後の王朝にも引き継がれることとなる。

また、太平興宝という貨幣の鋳造を行った。

966?
丁部領(Đinh Bộ Lĩnh、ディン・ボ・リン、丁先皇)が「十二使君」を制して、華閭(Hoa Lư、ホアルー)で帝位に就く。国号は「大瞿越(Đại Cồ Việt、ダイコーヴィエット)」。その翌年には長子丁璉(Đinh Liễn、ディン・リェン)を南越王とする。
970
年号を「太平」と定める。
975
丁璉が宋に赴き、丁部領が宋より交阯郡王に封じられる。
976
中:宋太宗即位。
979
丁部領、丁璉とともに暗殺され、6歳の次子丁璿(Đinh Toàn、ディン・トアン、廃帝)が即位する。大将の黎桓(Lê Hoàn、レー・ホアン)が副王となって実権を掌握。

コメント

ちょっとえぐい話ですが、丁部領父子の殺害犯は処刑された後、その肉と骨はミンチにされて食べられてしまったそうで。文化人類学あたりの見地からすると興味深い現象なのではないかと。

更新履歴

2007/07/15 更新

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