ヴェトナムの陶磁
ヴェトナムの陶磁器は中国の影響を強く受けつつ、独自の発展を遂げている。近世の東南アジア貿易の発展に伴って、その陶磁は大量に世界各国へ輸出されていたことが判明している。
また、日本でも、ざっくりと模様が描かれた柔らかくあたたかい作風は、安土桃山時代・江戸時代に茶器として愛好された。
初期のヴェトナム陶磁
ヴェトナムで古代より、釉薬がかかっていない土器が各地の遺跡より出土している。中国による支配が開始されて後漢代に至り、ヴェトナム北部で中国陶磁の影響を受けた灰釉・褐釉陶器が作成されていた。
製法の発展
ヴェトナムが中国の支配を脱した時代から11世紀の李朝時代には白磁が焼成されるようになる。器形は中国広東省の白磁の影響を受けているが、ヴェトナムに特徴的に見られる白釉に黒褐彩を施した作品が存在する。形は丁寧に整形されているが、釉薬はまだ発展途上にあり、白釉もやや黄色みがかっている。
陳朝に入り、東南アジア貿易の発展と国内需要の伸長に伴って活発な製品開発が始まり、陶磁器生産は質量ともに大きく発展した。青磁・緑釉・黒褐釉の生産が開始され、特に中国での大元成立からしばらく後の陳朝末期には青花や、広東の影響を受ける鉄絵を生産するようになっている。重ね焼きのための“目跡”や器の内底の釉薬を矧がす“蛇の目状釉剥ぎ”(14世紀以降?)が見られるようになったことから、陶磁器大量生産への発展が窺える。
陳朝の青磁では、浅く彫った(或いは印した)唐草風の葉紋をもつ一群がこの地域・時代独自の特徴として知られる。ただし中国南部にも幾つか類例が見られ、これについては更なる研究が必要らしい。片方の白磁には、蓮弁の浮彫を施した盤・壺・水注が多く見られる。仏具として利用されたらしい。
李陳朝以後の陶磁器には、高台(椀や皿の土台部分)の内側に鉄銹や黒褐釉を塗る“チョコレート・ボトム”と呼ばれるヴェトナム独特の特徴を持つものが多数存在し、これによって中国の陶磁器と区別することができる。
ヴェトナム青花
陳朝末期に始まるヴェトナム青花は、大元の影響を受けて中国とほぼ同時期に出現したが、本格的な発展は黎朝(15世紀中頃~)以後のことである。意外にも大元青花の模倣も黎朝(中国でいう明代)に本格的になっている。
ヴェトナム青花は磁器と言うよりは陶磁と磁器との中間というべきやきものである。純白に焼成できない胎土を使用しているため、白い釉薬をかけ、その上から絵を描き、更に透明釉をかける工程を経ている。そのため暖かく素朴な印象を与えるという。図案そのものも、最小限の規格しか持たないラフなタッチで描かれた。ただし、15世紀中頃の最盛期には、独自の器型や意匠を持ち、高級品として売買される見事な染付の作品も作り出されている。
また、このヴェトナム青花でも“チョコレート・ボトム”は特徴的に見うけられる。
やがて、九州太宰府から出土した14世紀半ばの陶片をはじめとして、15世紀頃にはフィリピンのパラワン沖やタイのランクイエン沖の沈船、沖縄首里城、トルコのトフカプ宮殿、ジャワのマジャパヒト期の遺跡など、各地でヴェトナム青花が発見されるようになる。制作年、制作地、染付を担当した女性の名が記されたトフカプ宮殿所蔵の青花がこの時代の代表作である。そして、ヴェトナムのホイアン沖で発見されたタイ船とおぼしき沈船からは、1997年より開始された調査により、24万点のヴェトナム陶磁器と数十万点の破片が発見された。
ここまで広範囲にヴェトナム青花が流通したきっかけは、中国明代の海禁令による中国陶磁の供給難とされる。
黎朝初期より活発な活動を行った窯としては、ハイズオン省のチューダウ、ホプレーがある。なお、現代でも盛んに窯業を行っているバッチャンが、やや遅れて青花生産を開始している。
日本への輸出
日本でも14世紀前後から、ヴェトナム陶磁の出土が始まっている。16世紀頃より特に珍重されたのは茶器としての「安南焼」であり、たびたび特注品が制作されて日本に運ばれた。現在でも図案の特徴により「蜻蛉手」の語が残っている。17世紀にはバッチャン窯の有力者に日本人女性が嫁ぐなど人的な結びつきも存在した。
ヴェトナム中部・南部の状況
ヴェトナム中部でも褐釉を中心とした陶器の生産は古くから行われており、チャンパの貿易活動とともに、広く流通していた。1000年頃までのチャンパの首都であったチャキェウ(当時はシンハプラ)からは中国陶磁とイスラム陶器が発見されている。
ヴィジャヤに首都を移したチャンパ王国はあらたにビンディン窯を興した。14世紀から16世紀、中部が大越に組み込まれて以後もビンディン窯から盛んに陶磁器が輸出されており、東南アジア各地・インド沿岸・エジプトにまで出土例がある。やがて鄭氏と阮氏が南北に別れて政権を樹立すると、中部フエに拠った阮氏(広南国)はフエ窯を作った。それまでの中部の窯場も北部の影響を受けた陶磁を生産するようになる。
一方、南部では鄭氏と阮氏が争い、阮氏(広南国)がメコンデルタの開拓を開始する時代まではクメールの影響を受けた陶器を制作していた。阮氏(広南国)、北部からの移民・捕虜、及び明・清からの移民の流入に伴って、幾つかの窯場が発生する。これら窯場は日用品を量産した。しかし、全体的な品薄は続き、江戸時代初期の日本からも肥前磁器などが輸入されている。
輸出から国内需要へ
明の海禁令解除後、ヴェトナム陶磁は国内需要向けに徐々に生産をシフトした。その内訳は日用大量生産品と、寺院への供献のために作られた品質の高い作品である。技術レベルでの極端な低下は見受けられない。
輸出品としてのヴェトナム陶磁はここに終焉し、国内の窯は国内向けにのみ生産を続けることになった。
参考文献
- 町田市立博物館、『ベトナム青花 ――大越の至上の華――』、2001
- 櫻井清彦・菊池誠一編、『近世日越交流史』、柏書房、2002
- 長谷部楽爾、『インドシナ半島の陶磁』、瑠璃書房、1990
- 石井米雄(監修)、『ベトナムの事典』、同朋舎、1997
- チャンパ王国の遺跡と文化展実行委員会、『チャンパ王国の遺跡と文化』、財団法人トヨタ財団、1994
コメント
気安くテーマを決めたら意外と資料を持っていなかったので結構苦労しました。
しかも阮朝からフランス植民地時代にかけてのヴェトナム陶磁に関する日本語資料が全く見つかりませんでした。日本でのこのジャンルは詳細な研究がなされているとはいえないようで、外国語文献を読むしかないようです。流石にそこまでやるには覚悟が‥‥。
写真は、2002年にわけあって(笑)家族旅行に行ったときのものです。
更新履歴
2007/03/31 更新
リニューアルに伴い、データをコンバートしました。
- Etusho 2007-03-31
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