阮福暎(1762‐1820)

人物情報

姓名阮福暎
Quốc ngữNguyễn Phúc Ánh
主な日本語読みグェン・フック・アィン
別名阮福映(一般的な表記)

帝号など

帝号嘉隆帝
Quốc ngữGia Long Đế
主な日本語読みザロンてい
在位年1802‐1820
廟号世祖

事績

ヴェトナム阮朝の創始者。

1600年代から1800年代にかけてヴェトナム中・南部に広南(Quảng Nam、クァンナム)国を築いていた阮(Nguyễn、グェン)氏の一族出身。広南国定王阮福淳の甥であり、西山(Tây Sơn、タイソン)阮氏の攻撃により広南国阮氏が滅亡した後の生き残りである。

広南国滅亡後、1780年に嘉定(Gia Định、ザーディン、現ホーチミン)にて即位。その後、西山阮氏に敗れてカンボジアやタイに亡命する。ここでラーマ1世や反西山の姿勢をとる華僑の援助を取り付け、西山阮氏との激しい戦いを繰り広げつつ、南部ヴェトナムを中心に勢力を広げる。1788年に嘉定城を陥落させた。

翌年、幼い長子阮景(Nguyễn Cảnh、グェン・カィン)を名代としてフランスのルイ16世との間にヴェルサイユ同盟条約を結ぶも、結局フランス国家としての援助は得られず、アドラン司教ピニョーがフランス人志願兵をかき集めた。

1801年にはフエを陥落させ、翌1802年、ハノイを奪還して西山阮氏を滅ぼし、南北ヴェトナムを統一する。

1804年、清より“越南國王”として冊封された。

彼自身は当初“農耐(Nông Nại、ノンナイ)”の国号を使用しており、冊封時には“南越”の国号を希望していたが、前漢を圧迫して両広まで版図におさめた南越の号を使用することに清が難色を示し、妥協して南越をひっくり返した“越南”を使用することとなった。これは“越南”も“南越”もヴェトナム語の文法では“南越”となるためである。

南北統一後、均田制と『皇越律令』を発布したが、嘉隆帝は南部・北部を直接支配することは避け、総鎮を置いて間接的な支配を行った。

参考文献

コメント

苛烈きわまる戦争を20年以上経験してドラマチックな人生にもかかわらず、いまいち地味な印象の人物。彼の廟は夫婦並んだ珍しい作りだそうです。

更新履歴

2007/04/03 新規作成

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